FC2ブログ
        

終戦記念日を前にして、両親を悼む

2019/ 08/ 14
                 
就寝前の運動し過ぎで、2時間の睡眠で目が覚めてしまいました。

疲れてぐっすりという事なんでしょうかね。

スッキリしています。



お盆でお墓参りに行かれる方も多いかと思います。

実家の父が亡くなってから約32年になり、母が亡くなって約20年が経ちました。

諸事情があって、母の葬式以来一度も、里帰りも墓参りもしていません。

親不孝しているよなぁと思いつつ、仕方ないかなぁと諦めてもいます。

先祖を大切に守ってきた両親なので、あの世とやらにいるなら

心配やら、失望やら、もしかしたら怒ってるかも知れないですね。

でも、日常の暮らしの中で、両親の思い出が度々話題に出ていて

忘れて去ってる訳ではないから、或る意味供養は出来ていると

勝手な解釈をして自分を納得させています。

そんな中、両親の思いで話のなか、終戦記念日が明日と気が付いて

父と母の哀しい人生が頭に浮かびました。

父は明治43年、母は大正6年に京都で生まれました。

ともに長男、長女でかなり裕福な家で育ったと聞いています。

父は(若旦さん)と呼ばれ、母は(いとさん)と呼ばれ大切にされていたようです。

父と母の出会いは、母の父親が父の遊び友達だったことから

娘を嫁にどうや、よろしいなぁ・・・なんて軽く婚約が決められたとか。

まだ大戦が勃発する前の時代です。

でも、結婚後すぐに父は徴兵で大陸に渡り、従軍。

一時復員した頃、大戦勃発で再び徴兵され、主に南方ビルマ(現、ミャンマー連邦共和国)や

フィリピンに従軍したと言います。

父は戦争体験を多くは語りませんでしたが、私が成人した頃

数枚の写真を見せながら話してくれたことがありました。

地獄だったと・・。

父が所属していた部隊の殆どの人が飢えと感染症で死んだといいます。

木の根、皮、虫を食べ、泥水をすすって生き延びたといいます。

本体に合流した時、数人しか生き残っていなかったと。

そんな戦場で、開戦時から終戦までの期間、従軍先を転々としたそうです。

父の体には全身に爆弾で受けた破片が残されていました。

父の出征後、母は父の実家で過ごしていたようです。

父の実家は周山地方の奥まったところで林業、農業を営む集落なのに

食べる物は配給でしか手に入らなくなっていたようです。

この時代は子の居ない嫁というのは居場所が無かったといいます。

肩をすぼめるようにして暮らし、ひたすら、父が復員してくるのを

待ち続けたと聞きました。

終戦に日を境に、ラジオで復員兵の名前が放送されたようです。

昭和20年が過ぎても父は帰還せず、ラジオで名を聞くこともなく日は過ぎて

母は復員してくる人の降り立つ(舞鶴)(敦賀)の港に通い父を探したといいます。

漸く翌年半ば頃、父は生きて帰った姿を見せたそうです。

でも、父には帰る家が残されていませんでした。

祖父は終戦1年を過ぎた時、父を戦死したものと諦め、廃嫡し

家を継ぐ者として養子を迎えてしまったそうです。

終戦の日以前、出征地へ赴く父は、爪と髪を遺品として出発前に

手紙に添えて送っていたようで、家族は生きて帰れない戦地へ行ったと

覚悟を決めていたとかで、終戦後1年を待っても音信が取れない父を

待てなかったのでしょうね。

母は、戦死したとされる兵隊が復員してきた例を信じ、父の死を

確かめられない内は諦めない思いを持ち続けていたようです。

祖父は養子縁組を解消することもなく、父を家に迎い入れる事もなかったようです。

その頃の父はマラリアを病み、気持ちも荒んでしまっていたとか。

両親は京都市内に居を移し、人生の再出発を図るも不運は続いて

坊っちゃん、お嬢さん育ちの両親には生きづらい人生が続いたようです。

戦時中、京都は戦災は無かったように思われがちですが、爆撃は少なくても

飛行機からの銃撃は多々あったようです。

母は銃撃から逃げる際、一緒の方角に逃げていた直ぐ前の人の

胸が、銃撃の弾で大きな穴が開いて死んでいくのを見たといいます。

腕を飛ばされた人、足を撃ち抜かれた人、体に銃弾を受け血だらけになった

人を真に当たりにし、外に出ればいつか死ぬと恐ろしかったと話していました。

終戦直後、母は、勤務先の歯科医から自害用の薬を渡されたといいます。

米軍の進駐を恐れての事らしいのですが、父の生存を信じていた母は

生死を確かめるまでは、どんな思いをしても生きのびると決めていたと

後年聞かされました。

父は外に心を開かないまま、酒に溺れ、荒んだ心も癒える事もなく

5人の子を生しながらも、決して幸せな生き方の出来ない人だったと思います。

76歳の秋、一人酔って自転車で道路わきの側溝に転落、頭部外傷により

半月後に死亡。

母は、戦後、父と共に流れ着いた草深い田舎で、担ぎ行商をして

5人の子を育て、私の年頃には大病を重ね、半身不随のまま言葉も忘れ

81歳の生涯を閉じました。

坊っちゃん、お嬢さん育ちの苦労知らずで育った父と母が

戦争という無慈悲な行いがあったことで、思い描いた人生とは違う生き方を

しなければならなかった哀しさや苦しさ悔しさは、戦後の平和な時代に育った

私に肌で感じる事は出来ないけれど、父と母の重い口から語られた

戦争体験と人生の苦楽を、僅かでも思いやれることは出来たのかと思っています。

戦時中の事は多くを話さなかった父と母でしたが、終戦記念日が来ると

テレビもラジオも消し、新聞にも目を通さなかったのを思い出します。

悲惨な生き方を強いられた人はまだまだ多くおられるでしょう。

父母とは比べようもない程、苦労、苦痛、苦難を乗り越えられてきた方も多くおられましょう。

終戦記念日とは戦後生まれの私にも未だ重いものとなっています。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ ささやかな暮らしへ
にほんブログ村
スポンサーサイト



                 

コメント

        

Re: タイトルなし
マーニ さん。

コメントをありがとうございました。

亡くなる前に、両親の辛かった思いを聞いてやれて良かったと思います。

管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます